真言宗大覚寺派

瑠璃光寺について

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【 立 地 】

福岡県糸島市志摩稲留1053‐1、糸島市の北西部で、可也山の北側の火山(ひやま 標高244メートル)の9合目にある。火山は稲留、小金丸、久米、井田原にまたがっており、稲留神社から集落をぬけた登山路がのびている。また久米、野北方面にも細い道がのびる。


糸島市の眺め

玄界灘の眺め

もともと山頂に薬師堂があり、瑠璃光を発っしていたが、その光を礼拝せずに通過する船は難破するといい、現在の地に下したという。現在山頂にパラボラアンテナ施設の横には奥之院があり、石像の弘法大師と波切不動明王を祀っている。山頂から少し下った場所からの玄界灘の眺めは絶景である。また瑠璃光寺の駐車場からは、糸島市、博多湾を一望することが出来る。


現在の奥之院

昔の奥之院

来目皇子陵墓跡

江戸時代の『筑前國続風土記』によると火山の名は神功皇后(じんぐうこうごう)が山上で火を焚いた ことから付いたといわれている。 古来より山頂に火を焚き夜間の海上交通の目印となっていたことに由来するものであろう。 また、海上からの外敵侵入の際、太宰府へ急を告げる狼煙(のろし)山であったという説や、 「続日本記」に記された古代山城「稲積城(いなづみじょう)」がこの地であるという説もある。また山の北側には推古天皇10年(602)にこの地に「撃新羅将軍」として駐屯し、翌年病のため亡くなった聖徳太子の弟来目皇子(くめのみこ)の陵墓跡がある。

【 縁 起・伝 承 】

インドからきたという清賀上人は、まず雷山にのぼり、現在の千如寺ご本尊十一面千手千眼観音像を刻んだ。その後、火山にのぼり、薬師如来像と十二神将を刻み、不知火山瑠璃光寺と名付けたという。当時山頂の堂床というところにおいた。江戸時代までは千如寺の末寺であったが、現在は真言宗大覚寺派の一末寺である


清賀上人(千如寺蔵)

瑠璃光寺略縁起

当院に残る「瑠璃光寺略縁起」には「帆を下げざれば、風が吹いて舟を転覆させようとする」ので現在の場所に移した事や、「南の大道(現在の初から船越に向う県道506号線)を通る者、馬を下りなければ、落馬すること度々があり、戸を絶えず閉めていた」とあり現在秘仏とされる所以であろう。また「天文元年(1532)失火のため本尊をも焼失した。村人は嘆き悲しんだが、その夜、15歳以上のすべての男女の夢枕に薬師如来がたち、壱岐の国風本の山奥の孫次郎の家の庭の椿の木に宿っているから、迎えにきてくれという。半信半疑ながら壱岐に出かけた村人は、夢のお告げの通りの場所にあった椿の木を持ち帰り、如来像と十二神将を刻んだ」と伝えているが、その伝承には地元稲留との繋がりの深さを物語っている。その薬師如来像は平成14年に修復し、現在旧本堂に祀られている。

宝暦4年(1754)千如寺住職実相により再興され、新しく薬師如来像を刻み、本堂に大祭日を除いて秘仏として安置されている。なお千如寺の所蔵の文書には弘化8年(1285)瑠璃光寺宛の沙弥恵達や覚乗連署の寄進状が残されている。
さらに平成21年(2009)、山王社の移転にともなって新たに青銅製の経筒(写経を納めた筒型の容器)が発見された。寺の境内に土を盛るため、地蔵堂後ろの丘陵部分を重機で掘削し発見に至ったもので、銅製経筒の筒(身・脚)・底板・蓋、鉢、青白磁合子が出土しており、形態的特徴から12世紀前半の所産と考えられる。


旧本尊

寄進状(千如寺蔵)

経筒(糸島市教育委員会提供)

【 法要 】

例祭日、特に1月、4月、7月、10月の大祭日は薬師如来大祭としてご開帳を行う。法要後、住職が大般若経の経巻で、参拝者全員の肩を軽くたたく。そして念珠くりで、般若心経を唱えながら参詣者全員で大念珠を右回りに廻していく。


念珠くり

薬王水石版

瑠璃光寺の本尊は「薬師如来」であるが、正式には薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)で、薬壺(やっこ)を左手に載せ、右手は施無畏印(せむいいん)というお姿でまた、脇侍(わきじ)として日光・月光両菩薩。眷属として十二神将を従えており、特に眼病治癒に霊験があると伝えられ、所願成就のお礼の「絵馬」が多数奉納されている。また井戸からの湧水は「薬王水」と呼ばれ、多くの参詣者が汲みに来ている。「火山のお薬師様」として地元の人に守られ、眼病等の病気の治癒、健康を祈願する。


薬王水を汲む参詣者

絵馬

日本一の日の出

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